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風俗にまつわる有名人のコラムコーナー

kaku-butsuカクブツJAPAN〜俺にも言わせてくれ〜

kaku-butsuにゆかりのある人物が、週替わりで、時に熱く、時にクールに風俗に限らず世の中(ニュース、カルチャー、スポーツetc...)について、語り尽くすコラムコーナー

せきしろ

文筆家
せきしろ

文筆業。小説やエッセイなど多方面で活躍。著書小説『去年ルノアールで』はドラマ化もされ、「無気力文学の金字塔」と各方面で話題になった。他の主な著書に『不戦勝』『妄想道』などがある。また、『カキフライが無いなら来なかった』『まさかジープで来るとは』(ともに又吉直樹との共著)で自由律俳句に、『ダイオウイカは知らないでしょう』(西加奈子との共著)で短歌に、他に『煩悩短編小説』(バッファロー吾郎Aとの共著)などがある。

小保方さん以外について~ドッキリのタイミング編

2014/09/18(木)

文筆家 せきしろ


ドッキリを仕掛ける場合、重要な仕事として「ドッキリでした!」と伝える役がある。最もメジャーな形態としては『ドッキリ』と書かれた看板を持って出現し、「ドッキリでした!」と伝えるもので、ほとんどのドッキリ番組がこの形だ。
はたしてこの仕事、自分にできるかどうか?私は時折考えることがある。
まずは看板を持つことから始まる。ドッキリの看板を手にしたことがないためにわからぬが、テレビを見ている限り重そうではない。この過程は問題なくクリアできる。
次に「ドッキリでした!」と言うこと。これは大きな声ではっきりと言わなければならない。これも問題はない。不安ならば何度か練習すれば良いし、言わなくてもターゲットに後ろから近づき、肩を叩いて振り向かせ、看板を指差して伝えるパターンもある。
問題なのは看板を出すタイミングだ。これが大きな壁となって私の前に立ちはだかる。
看板を出すタイミングが早すぎるのは問題外である。まだドッキリが始まっていないのに「ドッキリでした!」と種明かししても相手は何のことだかわからないし、誰の得にもならない。ただの「看板を見せびらかしに来た人」になってしまう。
ドッキリが始まってすぐはどうか?これもだめだ。ドッキリが仕掛けられ、それに対するターゲットの反応が出る前に種明かししてしまうと、ドッキリ失敗となる。
逆に遅いのも良くない。ドッキリの内容によってはターゲットが仕掛け人に対して怒り、喧嘩になってしまうこともある。そうなる寸前の、ギリギリのところで「ドッキリでした!」と止めに入らなければいけない。
このタイミングを逃すと大変なことになる。ドッキリは「なんだドッキリだったのか!」と笑って平和に終わるべきもの。殴り合っているところに「ドッキリでした!」と登場しても、笑顔はなく痛みだけが残ることになる。
喧嘩が始まってもまだ「ドッキリでした!」と種明かししなければ、争いは激化する一方だ。止めに入った周囲も巻き込まれ、争いはどんどんと大きくなっていくだろう。やがて戦争に発展する。
そのような状態になってもなおドッキリだと伝えなかったならば、戦争は激化し、最終的に人類は滅亡する。荒れ果てた地球には私がひとり、手には看板を持ったまま……。
早くても遅くてもだめ。ベストなタイミングしか許されない。全ては私の判断にかかっている。そう考えると相当なプレッシャーだ。「まだ早い」「今か?」「いやまだだ」「もう少し」「焦るな」「もうひと盛り上がりあるかもしれない」「もしかして今だったか?」「ベストタイミングはさっきだったかもしれない」「しまった」「もう遅い」と、ひたすら自問自答することになる。
たとえベストタイミングで出したとしても、ターゲットが「騙しやがって!」と怒り、矛先がこちらに向けられる場合も考えられる。興奮したターゲットに暴行を受けそうになった場合、自分の身を守るための道具はドッキリと書かれた看板しかない。相手の攻撃を『ドッキリ』を書かれた部分を盾のように使って受けるのだ。時には攻撃しなければいけない状況もあるだろう。その時は『ドッキリ』を書かれた部分で相手を殴打するしかない。
つまりドッキリの看板は攻撃にも防御にも使うことになる。それを考えると、素材をもっと丈夫で強力なものに替える必要がありそうだ。時間がないのなら、簡易的だが有刺鉄線を巻いたり、釘を打ち付けたりするだけでも攻撃力は増す。同時にその異様な看板は相手に警戒心を与え攻撃をためらわせるだろうから、ある意味防御にもなる。
ただ、ターゲットが怒らない場合もある。多くはこのパターンだ。その時に異様な武装な看板は必要ない。となると、二種類の看板が必要となるということか?
そもそも、いまだ看板であること自体がおかしいのかもしれない。私がまだ子供だった頃、来るべき未来の姿をよく想像したものだった。ドッキリ番組に関してもしかり。未来のドッキリの舞台はきっと宇宙にまで広がり、仕掛け人はロボットになるだろうと思っていた。ドッキリの内容も、リニアモーターカーを使ったものや、天候を制御する機械を使ったものなるのではと心躍らせた。そしてドッキリの看板はなくなり、レーザー光線で空中に「ドッキリ」と描かれる方法に変わると考えた。あるいは「ドッキリですよ」と脳に直接語りかけるスタイルをも空想したものだ。
それがどうだろう。いつまでも看板のままだ。ドッキリの伝統を重んじ、遵守する姿勢は理解できるが、そこに固執するあまり、ドッキリそのものに支障をきたしてしまっていないだろうか!
いや、特に支障はきたいしてない。看板を使用することになんの問題はない。
ならばやはり私のタイミング次第か。私にできるだろうか……。
緊張が高まる。まるで漫画『スラムダンク』の山王工業高校の堂本監督のように、いつの間にか手のひらは汗で湿っている。それを見て私は我に返る。ドッキリの仕事を頼まれたわけでもなければ、今後もそんなことはない。だから考えても仕方がないと気づき、無駄な時間は終わりを告げるのだ。