SP企画

風俗にまつわる有名人のコラムコーナー

kaku-butsuカクブツJAPAN〜俺にも言わせてくれ〜

kaku-butsuにゆかりのある人物が、週替わりで、時に熱く、時にクールに風俗に限らず世の中(ニュース、カルチャー、スポーツetc...)について、語り尽くすコラムコーナー

放送作家・劇団「あんかけフラミンゴ」主宰 島田真吾

お笑い芸人
プチ鹿島

オフィス北野所属のお笑い芸人。時事、芸能などの事象を独自の見解で見立てる事から「時事芸人」「文系芸人」などと称される。マキタスポーツ、サンキュータツオらと共演のTBSラジオ「東京ポッド許可局」が大人気放送中。著書に「うそ社説」(ボイジャー)「思わず聞いてしまいました!!活字版」(スコラマガジン)など。

松木安太郎=ドラえもん説

2014/10/2(木)

お笑い芸人 プチ鹿島


「STAND BY ME ドラえもん」を観た。公開から一ヶ月以上経つのにやっと観たのは、大ヒット中という人気に対して斜に構えたわけではない。

「いっしょにドラ泣きしません?」というコピーに警戒したのである。いや、困惑した。

送り手側のほうから「泣けるよ」とお誘いされると戸惑ってしまう。日本には昔から「お涙頂戴」という言葉があるが、むしろ最近は「お涙どうぞ」とでもいうような、送り手側の“乾いた”視線がある。普通にビジネスとして成熟している。だから、まんまと泣いたらなんか悔しいような、負けのような。

もちろんここまで疑心暗鬼なのは野暮かもしれない。AVで「ヌく」ように、映画で「泣く」ことを目的とした鑑賞方法はさっぱりとした態度だとも思う。まさに「号泣する準備はできていた」(江國香織)ではないか。

そういえば以前「HACHI 約束の犬」を観にいった時のことを思い出した。皆さんは覚えているだろうか、「HACHI」を。リチャード・ギアの「ハチ~」という脱力感漂うセリフで話題をさらったあの映画だ。吹き替え版の北大路欣也は同じ場面で「ハチ!」と重厚に、ただひたすらに重厚だったあの映画だ。私は予告をみてバカ映画の予感がしてワクワクして初日に行ったのだが、劇場はすすり泣きの大合唱だった。

ところが終映後に多くの人(特におばちゃん)の顔を見ると泣きながらも、とてもすっきりした顔をしていたのである。そしてランチの相談をしていた。あの後モリモリ食べたと思う。泣くために笑顔で劇場にやってくるのもエンタメなのだと痛感した瞬間である。

そんなわけで今回の「STAND BY ME ドラえもん」も「お涙どうぞ」の空気に圧倒されることが予想されるので迷っていたのだが、「大人向け」につくったというコンセプトがどうしても気になったのだ。考えてみればドラえもんで育った大人のほうが現役組よりはるかに多い。やり方によってはすばらしい「市場」だ。どのように大人にお金と涙を落とさせているのだろう。これはやはり観ておかねば。

結果から言うと私はドラ泣きはしなかった。でも別に不快でもなかった。それよりむしろパンチが効いたのは「3D」という要素だった。ドラえもんの「実写」を体験することで、忘れていた子どもの頃のディテールが一気に噴出したのだ。

具体的に言うとドラえもんの「頭」。私もドラえもんを夢中で読んでいて、常に「ドラえもんがいたらなぁ」「机から出てこないかなぁ」と妄想していた。そんなとき、一度でいいからドラえもんに触ってみたいなぁという思いも付随していたのだ。

手を伸ばせばそこにドラえもんがいるという妄想を幾度もして(相当なボンクラだったかもしれない)、そのたびにそれは現実でないことを思い知った。今回「3D」を観たとき、リアルなドラえもんの造形に、あの頃の思いが一気に体中の毛穴から飛び出してきたのである。子供時代の忘れていた感覚を思い出させてくれた。3Dすごい。

そして「のび太はいつも結婚のこと考えてる」という彼のずるさもまた思い出したのである。そう、ずるさだ。あれぐらいの男の子はまだ生々しい性欲がない年頃だけにむしろ思いは飛躍して、好きな子との結婚ばかりを考えるのだ。私にも経験がある(やはり相当なボンクラだったかもしれない)。

だから努力せずにドラえもんの道具に頼り、しずかちゃんの気を惹こうとするのび太にずるさを感じていたのだが、一方でドキドキしていた。「努力しなくても”あいあいパラソル“の傘の下で話せば、のび太のことを好きになってくれるのか?」という下世話な興奮である。見たい、その瞬間を!努力しなくても世界が変わる瞬間を!

大抵こういう場合ジャイアンがうっかり入ってしまう展開が待っていて、ゲスなドキドキは夢と終わる。

私の経験で言うなら、「ドラえもん」はのび太の成長物語というのは後付けの「美談」である。子どもの頃に下世話なドキドキを味わえた漫画だから。

さて「ドラえもん」を観た数日後。サッカー国際親善試合「日本VSベネズエラ」戦が行われた。アギーレ監督の就任第戦2目。テレビ中継ではおなじみ松木安太郎が解説していた。

今年のW杯期間中は「ニワカ」という言葉が多く飛び交った。あえて祭りに乗る、というムードの変化は「松木安太郎の評価の変化」と比例していると私は考える。というのは少し前まで松木解説は暑苦しい、うっとおしいと馬鹿にされていたのに、明らかに見るほう(視聴者)が吹っ切れてきた。
いざ松木に乗ったらすごく気持ちいいことに気がついたのだ。少なくともその瞬間の日常は楽しくなったのだ。この世知辛い時代に松木に乗って楽しもうとする人を、あまり否定する気持ちにはなれなかった。

しかしW杯で日本は惨敗した。また出直し。険しい道である。でも今回もまたテレビから松木安太郎の声が聞こえてきて、その日常性に、私はつい安心してしまったのである。そしてハッとしたのだ。「この繰り返しじゃダメだ」と。

松木安太郎に依存し、その安心と安定の楽しさや日常性を楽しんでいるかぎり、少なくとも「私の日本サッカー」は変わらない。この関係、まるでドラえもんに依存しているのび太ではないか。

同じ日、テニスの全米オープン決勝戦の中継では、錦織圭が世界と戦っていた。そこに「松木安太郎」はいない。実況席の話をしているのではない。見る側の態度を言っている。

 「STAND BY ME 松木安太郎」、「3D松木安太郎」。いつもそこに松木安太郎がいた。勝ったら一緒に喜んでくれ、負けたら慰めてくれる。そしてまた似たような日常が続く・・。

我々は松木安太郎から自立しなければならない。

ドラえもんの道具に頼らないのび太が成長と呼ぶなら、松木安太郎というにぎやかで安心な存在に頼らず、自分の視点を持って国際試合を見る。そのとき、我々ニワカジャパンは初めて成長する気がするのだ。