SP企画

風俗にまつわる有名人のコラムコーナー

kaku-butsuカクブツJAPAN〜俺にも言わせてくれ〜

kaku-butsuにゆかりのある人物が、週替わりで、時に熱く、時にクールに風俗に限らず世の中(ニュース、カルチャー、スポーツetc...)について、語り尽くすコラムコーナー

第14回はゲスト回のコラムが大好評につき、レギュラーでカクブツJAPANのコラムを連載していただく事となった文筆家のせきしろさんです!

せきしろ

文筆家
せきしろ

文筆業。小説やエッセイなど多方面で活躍。著書小説『去年ルノアールで』はドラマ化もされ、「無気力文学の金字塔」と各方面で話題になった。他の主な著書に『不戦勝』『妄想道』などがある。また、『カキフライが無いなら来なかった』『まさかジープで来るとは』(ともに又吉直樹との共著)で自由律俳句に、『ダイオウイカは知らないでしょう』(西加奈子との共著)で短歌に、他に『煩悩短編小説』(バッファロー吾郎Aとの共著)などがある。

小保方さん以外について~キャベツお代り編

2014/05/29(木)

文筆家 せきしろ


トンカツを食べる時、最大の難関はキャベツのお代わりである。
店に入り、席に座り、トンカツを注文する。運ばれてきたトンカツを食べる前に、店内を今一度確認する。貼り紙を探すためだ。
お薦めメニューと水着姿のタレントのビールのポスターの間にお目当ての貼り紙を見つける。それには『キャベツお代わり自由』と書かれている。店によっては『キャベツ&ライスお代わり自由』の時もある。キャベツとライスだけではなく、味噌汁までお代わり自由の店もあれば、お代わりできるものが何もない店もある。回数が決められている場合もある。
今はキャベツに特化して話す。『キャベツお代わり自由』のシステムは、私にキャベツを多めに食べることを心がけさせる。いわば『キャベツ食べ放題』と同義と考え、たくさん食べれば食べるほど得した気になるからだ。私にお代わりをしない選択肢はなく、逆に絶対にお代わりしなければとの使命感が生まれる。
キャベツお代わりにはいくつかのパターンがある。私が最も得意とし実践することが多いのは、最初にキャベツだけを全部食べてしまってからお代わりをするパターンである。皿の上には手つかずのトンカツしかない状態にしてからのお代わりだ。このスタイルの利点は見た目である。キャベツが追加されることにより皿の上が再び最初の状態になる。まるで時間が戻ったかのようで、気持ちを新たに食べることができる。
とんかつ半分にキャベツ全部を振り分け食べ、お代わりのキャベツで残りのトンカツを食べるパターンもある。こういった配分をきっちりと計算したパターンは、食べ終わった際の達成感は並ではない。
どちらもトンカツを残して、トンカツありきでのキャベツお代わりである。逆にトンカツが皿にないのにキャベツをお代わりすることは私にはできない。トンカツ店のメインはトンカツであり、決してキャベツではない。あくまで脇役なのだ。それなのにお代りなど失礼極まりない。
しかしキャベツのお代わりは私にとっては簡単なものではない。前述したように難関であるのだ。
何といってもお代わりのために店員を呼ばなければいけないことが問題である。普段大声を出さない私にとって「すみません」と声を出すことは相当の勇気がいる。
万が一店員に気づかれなかった時には大変恥ずかしいことになる。店員が見向きもしなければ「ただの大声を出した人」になってしまう。「あの人気付かれてないよ」と他の客が囁く声が聞こえてきそうだ。
声を出すのが嫌ならば手を挙げて呼ぶ方法もある。しかしこの方法は声を出す以上に気づかれる確率は低いことを私は知っているし、意外と目立ってしまうことも知っている。他の客に「あいつ張り切ってるな!」と思われるし、気づかれない場合、今度は下げるタイミングに困る。下げたら下げたで「あいつ下げたぞ」と思われる。
とはいえ、店員呼ばないことにはキャベツをお代わりすることはできない。葛藤がストレスを生み、トンカツに集中できなくなる。
ところがその呪縛から簡単に逃れることができる良い店を見つけた。京王線沿いのある駅に前にある小さな店はキャベツのお代わりがほぼ自動だったのだ。
店主の男性は客の皿を絶えず観察していて、キャベツをすぐに補充してくれた。それは一度や二度ではなく、隙あらばキャベツを入れてくれ、わんこそばのシステムに似ていた。
そのために「もう結構です」と言わなければならず、そこに新たなストレスが生じた。私は一度で断わるのはどこか悪い気がして、二度補充してもらい三度目が来てから「これでもう結構です」と言うことにした。三度補充すれば向こうも満足だろうし、こちらも確実に満腹を感じられる。これにより店員を呼ぶストレスとは比べものにならないほど軽いものになった。
ある日のこと。私は少し苛立っていた。今となってはなぜそうだったのか思い出せない。スポーツ新聞を読みながら食べたかったのに他の客が読んでいるために普通の朝刊しかなく、しかしそれにはプロレス情報が載っていないので読む気はしない。スポーツ新聞が読みたい!そんな些細なことでイライラしていたのかもしれない。
キャベツを一度補充してもらい、ほぼ手つかずの状態だったのにも関わらずすぐに二度目が来たものだから、その速さが気に障ってしまった。私は店主の手を払うように何も言わずにジェスチャーで拒否した。
それは明らかに冷たい仕草だった。いつもとは違う私の対応に、明らかに店主は戸惑っていた。そして寂しそうだった。
数か月後に訪れた時にその店主はいなかった。従業員から亡くなったことを知らされた。あの冷たい態度が店主との最後のコミュニケーションになってしまったわけである。私は悔やんだ。
その日から私は「勧められたキャベツを拒否することができない」という身体になってしまった。キャベツを拒否したことが再び「何かの最後」になるのが怖くなったのだ。
とはいえキャベツを拒否するというシチュエーションはそう簡単にあるわけではなく、生活していくことにまったく支障はない。
ただ朝刊を見るとあの日のことを思い出して大声を出したくなる。