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風俗にまつわる有名人のコラムコーナー

kaku-butsuカクブツJAPAN〜俺にも言わせてくれ〜

kaku-butsuにゆかりのある人物が、週替わりで、時に熱く、時にクールに風俗に限らず世の中(ニュース、カルチャー、スポーツetc...)について、語り尽くすコラムコーナー

せきしろ

文筆家
せきしろ

文筆業。小説やエッセイなど多方面で活躍。著書小説『去年ルノアールで』はドラマ化もされ、「無気力文学の金字塔」と各方面で話題になった。他の主な著書に『不戦勝』『妄想道』などがある。また、『カキフライが無いなら来なかった』『まさかジープで来るとは』(ともに又吉直樹との共著)で自由律俳句に、『ダイオウイカは知らないでしょう』(西加奈子との共著)で短歌に、他に『煩悩短編小説』(バッファロー吾郎Aとの共著)などがある。

小保方さん以外について~神社仏閣編

2014/12/25(木)

文筆家 せきしろ


荻窪駅から西荻駅へと向かう途中、お寺がある。境内に細い遊歩道があって、私はよくその道を利用する。
境内に入るや否や、私は注意深く歩き始める。例えば何かに躓いたとする。それがお寺の大切なものだったら、何かしらの良くないことが起こるのではないかと考えてしまうからだ。だから絶対に躓くわけにはいかない。また偶然何かに触って動かしてしまい、それが絶対に動かしてはいけないものだったために良くないことが起こるパターンも怖い。「お主、あれを動かしたのか!」と住職さんに怒鳴られて一大事になるだろう。故意ではなく小石を蹴ってしまい、それが何かを封印しているおふだに当たってしって剥がれたり破れたりしたなら、想像を絶する事態になるはずだ。そのため、私は細心の注意を払いながら歩くのだ。
とはいえ、あまりにも気にしながら歩くとかえって動きがぎこちなくなってバランスを崩しそうになる。その時にお地蔵さんを倒したらこれまた大変どころではない。そこで私はリラックスしようとお寺からかけ離れた他のことを考えようとする。
何を考えよう? ここは境内だ。不謹慎なことは考えてはいけない。絶対に考えてはいけない。そう意識すればするほど不謹慎なことを考えてしまい、いつもは考えないはずの『鶴光のセクシーなぞなぞ』が脳裏をよぎる。

『触ると温かくて、柔らかくて、じっとり濡れていて、縮れた毛がついていたりする「まん」から始まるものはなぁに?』

境内でこんな猥褻なこと考えるなんて、確実に何かが起こる。私は恐怖におののく。
しかし、先程のなぞなぞの答えは「万年床」である。セクシーなぞなぞはひっかけ問題であり、実際の答えは猥褻ではないのだ。ならば大丈夫かなと安心する。

『黒んずんでいて、縮れた毛が生えていて、大人はみんな大好きなようです。「お」で始まり真ん中が「まん」、最後のほうに「こ」がつくものはなぁに?』

またしてもセクシーなぞなぞのことを考えてしまう。今度は確実に猥褻ではないのか。いや、答えは「オスマン・サンコン」であるから大丈夫だ。
こうして境内を抜けるまで私は見えない何かに気を遣い続けるのだ。
似たようなことは神社でも起こる。不謹慎なことを考えてしまうとそれが神様にばれてしまって願い事が叶わない気がするのだ。
ところが、ほんの僅かな空気の冷たさが昔の記憶を呼び戻す。高校生の時、晩秋の空気の中、自転車を漕いで郊外のレンタルビデオ店に行って、AV女優だった立原友香さんの握手会に参加したこと。今から25年以上前の話だ。
そんなことを考えたら「何て猥褻なことを考えているんだ!」と神様が怒るに決まっている。しかし、神様が立原友香さんを知っているとも思えないからセーフだろうと思う。いや、神様は何でも知っているから日本の歴代AV女優の名前も全部知っている可能性もある。
そこで鳥居をくぐるや否や「いやー、いい神社だ! ここは本当に良い神社だ!」と頭の中で復唱する。これにより不謹慎なことを考える余地を無くし、同時に神社を褒めて神様の心証を良くするというわけだ。などと考えていることも神様ならば全部お見通しかもしれないのだが。
参拝前に手を洗う。洗い方のイラストが描いてある看板を見ながらだ。この通りに洗わないと願い事が叶わない気がして必死に真似する。
参拝の列ができている。私は列の一番後ろに並び、何をお願いするかを考え始める。「商売」だとか「健康」だとか「恋愛」だとか、自分のことをお願いするつもりで訪れたものの、神様に「こいつ自分のことしか考えてないな」と思われたら大変だ。
そこで自分以外の人のことをお願いすることにする。家族、友人、知人の名前が浮かぶ。誰か忘れていないかと考えているうちに、あまり好きじゃない人のことを思い出す。その人のことを願っても仕方ないし願いたくもないので、リストから削除しようとするも、その行為に対して神様が「器の小さいやつだ!」と判定したら困る。ならばどうするか? 
悩んでばかりもいられない。参拝の正式な方法も確認しなければいけないというのに。どこかにイラスト入りの看板があるはずだ。あの通りにしなければ。
などと迷っているうちに気づくと自分の番になっている。結局「みんな健康で幸せに」くらいの広くて抽象的なことを願う。みんなのことを考えて素晴らしいと感心してくれだろう。神様が。
と、「神様、神様」言っている私の頭に浮かんでいる神様の姿は死んだ祖父だ。